こちらでは、”.T”と名乗らせていただきます。
ただの”Tさん”でもよかったんですけどね、笑
ブログ自体は先週あたりにさっくりと設置し、しばらく放置していました(*'ω'*)
おしゃべりサロン実行委員会~おしゃべりサロン参加者の皆様との、「体験のシェア(と体験の解説)」が基本的な目的なので、細かい説明は省き、さっそく本題に入っていきたいと思います。
…と、書いてしまいましたが(*-*)
「まずは軽い自己紹介を」と訂正します。
ブログプロフにもありますように、1990年生まれの元不登校です。もうすぐ28になります。オンサセラピーモニターとして、何度かアロマルナさんのブログにも体験談を載せていただいてます。
このアロマルナさんとの出会いは面白いものでして。
簡単に書きますと、私は10代前半から、寝るとき横になると必ず聞こえてきた言葉がありまして。
それは、「男女関係(詳しくは、結婚・恋人)は一体どうするんだ」というものや、
「お前は人間ではないのだから」といった内容で、
その言葉の意味が全く分からずに、探しながら10年ほど過ごしていました。
丁度2017年北海道での初夏ごろ、アロマルナさんのカードリーディングで、
「私人間やめてるから~」との言葉を聞き、「ハッ!! これだ!!」と衝撃が走り、3日後くらいに、モニター希望してました( ゚Д゚)
飛び込んでみて初めて分かったことは、教わっていくことの一つが、
「『結婚学』と呼ばれるミロスであった」という事です。
自分の内側が告げていた言葉が、綺麗につながったと思いました。
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さて、ミロスと呼ばれるものは書店でよく目にします、所謂「鏡の法則」をベースとしたものですが、ブログ初の記事は、そこから入っていきたいと思います。
先日の読書会、お疲れさまでした。
いつもながら様々な話が聞け面白かったですし、同じような体験をした、同世代さまの話も楽しかったです。
その読書会で、
「相手を鏡として見る」とは言われても「これは自分だと受け止める度胸がない」との話題、「そのコツは何かあったりするのか?」というところで、この.T、注目されてしまいましたが、咄嗟に浮かばず(一一;)
ということで今回は、それをテーマにしたのですが。
今でもうまい伝え方が浮かびません、見切り発車です!笑
「書いていくうちに浮かぶだろう」と思いながら、ダラダラと……w
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私は1年ほど、スマホの音楽アプリを月額支払いで使っています。
今はグーグルですが、最初はアップルで利用してました。
もちろん、この記事を書きながら、お気に入りのアルバムをかけているわけです。
そこから閃きを得たことでは、
私たちは音楽を聞いているときは、とても客観的に、メッセージを受け取れると思うのです。
歌詞を頭の中でなぞり、「これは私の思っていたこと!」と思うことも、多々あるかと思います。
鏡の法則というのは、私がアロマルナさんで教わったように
パソコンであろうが、トイレの便座(笑)であろうが、空模様であろうが、普段過ごしてる建物や、果ては地球までもが、自分自身であるというところがありますよね?
そうなると、グーグルでかける音楽さえも自分の鏡なので、「あるある!」となるのは普通の事でしょうとも。
「目の前の他者」も「Youtubeで聞く音楽」も、実態は同じという事になります。
それなら、歌詞だとすんなり自分だと思えるのに、他者だと思えないのはなぜでしょう?
そこにあるのが多分「同化」なのだと思うのです。
ここを逆から言うと、上にも出てきた言葉「客観」ですね。
歌詞のメッセージの時は、あまり感情に巻き込まれていないので、スッと入ってくるわけです。
ということはですよ?
「これは鏡なのだ、私なのだ。 だから受け入れなければならないetc...」
それ自体が、鏡を見るときの障害になっているのではないでしょうか。
鏡に映る自分を見た時に、
「ああこんな化粧ノリの悪いおばさん、私じゃないわ。 だって私は永遠の17才だもの。 でも鏡にはこう映っているのだから、きっとこれ私なのよね、受け入れなきゃ……」
なんて思ってる時点で、受け入れてない自分を肯定しているわけです、笑。
「嫌だ」という思考というか、そういうものと同化してしまっているってところでしょうか。
「今の顔」を目にしたときに浮かぶ「嫌だ!!」に同化していて
「今の顔」を客観視してないんですね。
「今の顔」を「見ていない」中で「嫌だ!!」を「見ている」って感覚です。
顔の例えで当てはめていきますと、
「そうか、今はこういう顔なんだな」とすっと納得すればいいだけのところで、「私は自分の年を重ねた顔を受け入れる度胸がない」と言っていることになるわけですが。
これは私の経験則的に見ると単純に、
「こんな自分嫌だ!!」
って叫んでるだけのことだな、と見えます。
受け入れる度胸がないわけじゃないんです。
自分の今の顔を受け入れるのが嫌だ! って言ってるだけなんですね。
「自分の顔が今こうだと認める度胸がないの」
と言うのと
「私の顔嫌だ」
って言うのだと、何を感じますか? という部分でしょうか。
「『嫌だ』と主張するのはよくない、子どもっぽい」ので「そんなこと言ったって、今そうだから仕方ないじゃない」と攻撃される気がしたりして、一方では
「私度胸がなくて……」と言うと「自分の事をよく分かっているのだから、それ以上指摘しないで」→「ああ、怖いんだね、じゃあ仕方ないな……勇気が出たらでいいよ」となると思うのですが。。。
あくまでも、自己との対話としてですけれどね。
少なくとも私の世界では、このような反応が見られました。
「受け入れる度胸がない」とやんわり言った方が、否定されずに自分の意見を通せるので、素晴らしい口実になるわけです。
しかし周りにはちゃんと「ああ、自分の顔が嫌なのか」と聞こえていまして
「指摘しないで」と無意識に主張している相手に、「へえ、自分の顔が嫌なんだね」とは言えないんですよね、笑
これをあえて言うと何が起こるかというと……そう!
「あ、この人KYだわ(Or話通じてないわ)」ですねw
「『なーんかあんま受け入れられないのよ』って言ってるだけなのに。 私の話ちゃんと聞いてないでしょ」
と、逆切れするわけです。
相手はちゃんと意図を見抜いていますが、本人は自分に嘘をついているので、「そんなこと言っていない! 誤解しないで!」「いやいやそういう意味でしょ」の言い合いになってしまう。
ここで視点を曲の歌詞に戻しますと、音楽を聴いている間は
「私は今の状況を認めるのがなんか嫌だ」
とか
「私のあら捜しをしないで」
とか、思ってないと思いますw
ここでは思考のジャッジが、全く入っていません。
それ故に、素直に入ってくるのでは、と思います(*'ω'*)
という感じで
「何にもしがみついていない」というのは、受け入れていくときには大事な要素なのでしょう。
他者から否定されないようにしながら、自分を否定する(顔そのものと、顔が嫌なのだと叫びたい気持ち両方)という、ものすごい高度なことをやっていたんですね。
だとしたら、なかなかに凄いですね( 一一)
私の世界から見えたものが、「自分に戻る旅」を歩む仲間たちの助けになりますように。
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