本日は追記から入りたいと思います。
& 反転した親子 な、記事です!
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追記の方です。
母に言われて気づいたことですが、
「クリスマスまで3年くらいに感じるのは、それだけ待ち遠しいってこと?」
すっかり、説明忘れがありました( ゚Д゚)
基本大人は、「過去のデータを前提」に生きていますよね?
その都度その都度状況を判断したりせずとも
「今不要な情報」は、勝手に消されてしまいます。
「雑音があってもちゃんと音楽が聞こえる」どころか、雑音を雑音と感じない なんてのもそうですね。
それに対して子どもというのは、「一瞬一瞬が新しい体験」なんです。
鳥が飛んで行っただけでも、何処から飛んできたのか、何の鳥なのか、どのくらいの大きさなのか なんて、瞬時に思うわけです。 本人の自覚とは別にですが。
まだデータがないので、その都度判断しているんですね。
その一瞬一瞬の判断が「体感速度」と若干の関係がある、という話なのです。
無意識に多くの情報を省いているという事は、それだけ「刺激が無い」状態なので、
今に集中してないんです。
「ぼーっとしてると、気が付いた時には15分経っていた」
そんな時、(時間の流れはなんて早いんだろう)なんて思いませんか?
逆に
「子供にせがまれて乗ったジェットコースターが、死ぬほど長い時間に感じた」
とか。
私はトラックに衝突されそうになったことがありますが、1秒程度の瞬間を、20秒くらいに感じました。
子どもたちはぼーっとしているように見えても、大人ほどぼーっとは生きていないので、情報刺激の少ない大人より、一瞬一瞬を長く感じるんですね~。
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今日の本題「反転した親子」も、我が家の話です。
いつも登場いただく、母との間でよくあるネタの一つ
私(おかんはなぜそのように、人の話に相槌がないのか(社交的ではないのか)
母(しっかり聞いているのに、なぜ相槌をうたなくてはいけないのか)
という疑問です。
私の「母は相槌がない」という思考に対して、ずっと原因(上位にある観念)を探していました。
この疑問の答えは、母のちょっとした行動から見つかります。
私「なんでそんな無言で階段に座ってるの? 怖っ、電気もつけないで」
母「別に? こうするとリラックスするから」
そこで私は気づくんですが、
私自身、幼稚園~小学生の時には
ぼーっと階段に座ってるのが、一番「巻き込まれない」場所だったので、落ち着いていた、という経験があります。
ただ、その時の「階段は落ち着く場所」という思考が、吹っ飛ぶような体験がありまして。
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当時、
友達が仲間外れにする
〇〇をしてはダメ ばかり言ってくる。
一緒にいてもつまらないから
階段で考え事をしていよう。
と、いう思考状態の中に
でもちょっと、気を引いてみようかな
時々、変な声を出して。
なんて、「やっぱり仲間外れは嫌だって、気づいてもらいたい」気持ちもあり
時々動物の真似をしたりしながら、階段に座っていました。
すると、その時の友達からは
どうしてそういう事ばっかりするの!!
そういう感じだったら、もう付き合いたくない!!
と、一方的な手紙を頂きましたw
今でこそ
「一緒にいてもつまらないから
階段で考え事をしていよう」
の部分が
一緒にいてもつまらないから(〇〇してはダメ、なんて。 どうしてそんなことばっかりするの? つまらない)
階段で考え事をしていよう。(ワガママなあなたとは、遊びたくない、付き合いたくない)
という自分の本心であり
それがそのまま、外側に現れただけだと分かりますが、
当時はその手紙を読んで、(そうか私が社交的ではないのが悪いのだ)と思い、自分の在り方を決定しました。
自己主張の強い、言いたいこと(どうして〇〇はダメなの? 等)をハッキリと言う人間にならないと。
でも、言いたいことをハッキリと言う、ワガママな人間(この友人みたいな人)は嫌いだ。
「相手の話をよく聞き、よく反応し、優しく肯定する人間」
そんな人間になれば、周りも優しくしてくれるのだろう。
だって先生や大人はみんな、自分にしてほしいことは、まず人にしてあげなさい! と言っていたから!
よし、決めた!
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理想の友人として、「私の話をよく聞いてくれて、都度頷いてくれて、否定、批判しない人」
を求めていたので、「自分にしてほしいことは、まず人にしてあげなさい!」の教え通り
「相手の話をよく聞き、よく反応し、優しく肯定する人間」になることを選びました。
その自分を演じることで、私はますます「話を聞いてくれない人」を呼び込みます。
私が「相手の話を聞くことに徹する」ほど、相手は「この人に聞いてもらえる」とそのまま感じます。
リクエスト通り「聞く気があるのね!? じゃあ私の話をずっと聞いて!」モードになります。
「私の話を聞いて!」となっている相手に、さあ、私は自分の話が出来るのでしょうか?
もちろん、不可能ですね!
そりゃあ、「自分が聞いてばっかり」という現実を作りますよ!
「なぜ私の話も聞かない相手に、相槌をうたなくてはいけないのか。 聞くのは私ばっかり!」w
というよりもですね。
相手に素直に「私の話を聞いて」という気持ちになればいいのに
「人の話を聞けば、聞いてもらえる」という理屈を勝手に振りかざして
「自分の話を聞かずに帰る相手」を見て
私は聞いたのに、あの人は聞いてくれなかった!! と、なんで一人でキレてんの? って話なんですね。
「私の話を聞いて」という自分の気持ちを、その時の私自身が、正直に認めていないだけなんですね。
「私の話を聞いて!」と主張するのは
大嫌いなあの子、「言いたいことをハッキリと言う、ワガママな人間」と同じなので、真似したくないんです。
あの子とは違う! を言い張りたいばかりに、素直な主張を殺し続けるんです。
自分で自分の本心を、否定し続けるんです。
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さてはて。
自分の本心を殺す、という事は
+か-に傾いている状態です。
ここで、「話を聞いてほしい自分」を認めない限り、現実は変わらないんですね。
ミロスの醍醐味は、そこにあります。
上の話にミロスの法則を丸々当てはめますと、
私は「話を聞く自分」を演じながら
「なぜ私の話も聞かない相手に、相槌をうたなくてはいけないのか。 聞くのは私ばっかり!」なんて不満を持っている。
意識の表面では「相槌をうったり、社交的であるのはいい」(なぜそのように、人の話に相槌がないのか、社交的ではないのか)であっても、「しっかり聞いているのに、なぜ相槌をうたなくてはいけないのか」という本心がある。
正反対なように見えて、「本心を鏡が映し出している」というのは、ここで成立してきます。
ぱっと見親子で反対のことを言っていますが、本心は同じなんですね!
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